あれは、仕事の締め切りに追われていた静まり返った深夜のことでした。書棚から古い資料を取り出そうとしたその瞬間、私の視界の端を銀色の細長い影が、滑るような驚異的なスピードで掠めました。心臓が跳ね上がり、懐中電灯で照らし出した先にいたのは、体長一センチほどの、まるで魚のような光沢を持つ不思議な虫でした。これが、私と「衣魚(シミ)」との初めての、そして忘れられない出会いでした。家に出る虫の中で、これほどまでに原始的で、かつ隠密性に優れた存在は他にいないでしょう。調べて分かったのは、衣魚が三億年以上も前からその姿を変えずに生き抜いてきた「生きた化石」であるという事実です。彼らは翅を持たず、お尻から三本の長い毛を放射状に伸ばした独特のフォルムをしています。その細長い体は、紙の僅かな隙間や本と本の間に潜り込むのに最適化されており、私たちが大切に保管している古書や写真、あるいは和服の糊などを餌にして静かに繁殖を繰り返します。あの日、私が目撃した影は、私の大切な知識の財産が、ミクロの破壊者によって蝕まれているという警告だったのです。それから数日間、私は書斎という戦場で孤独な攻防戦を繰り広げました。衣魚は光を極端に嫌い、湿度の高い暗所を好みます。そこで私はまず、全ての段ボール箱を廃棄することに決めました。段ボールは保温性と吸湿性に優れ、衣魚にとっては最高級のマンションであり、かつ接着剤の澱粉糊が一生分の食料となるからです。長期保存する資料は、すべてプラスチック製の密閉ケースに移し替え、内部に乾燥剤と防虫成分を同梱しました。また、本棚の裏側に掃除機のノズルを差し込み、長年の間に蓄積されたホコリを一掃しました。衣魚はホコリさえも栄養源にするほど逞しいのです。この体験を通じて私が学んだのは、家に出る細長い虫の出現は、自分自身の「物の持ち方」を見直すきっかけになるということです。衣魚は、静止した空気と湿った古紙がある場所に必ず現れます。それらを動かし、風を通し、適切な器に収める。この丁寧な手仕事こそが、化学兵器に頼らずに大切な思い出を未来へ守り抜くための、最も洗練された知恵なのだと悟りました。今、私の書斎には清潔な風が流れ、あの銀色の影を見ることはなくなりました。しかし、棚の隅を掃除するたびに、あの日出会った小さな先住民の気配を思い出し、一冊一冊の本をより愛おしく感じるようになっています。
深夜の書斎で出会った銀色の素早い影衣魚との静かなる攻防戦